[劇評] 東京デスロック『Anti Human Education』

東京デスロック 『Anti Human Education』
2019年8月31日(土)-9月8日(日) 横浜STスポット

 〝劇場〟に入ると、そこは〝教室〟であった。──

 客席に腰を下ろしまず目に飛び込むのは、舞台奥の大きな白板。その周囲は「整理整頓」「今月の目標」「正しい姿勢をとろう」「責任・努力」「テストまで17日」といった、いかにも〝教室〟な掲示物に溢れている。目を横に転じれば、「ビタミンB群の働きを知ろう」「ベルマーク」といった、これまたよく集めたなというポスターが掲示されている。

 よく見れば、〝舞台〟そのものが〝教壇〟になるように設えられている。なるほど、これは私たち観客が、この〝教室〟で教育について教育を受けるという仕立てなのだなと諒解しはじめた頃、チャイムの音とともに芝居が始まり、「起立!」の号令がかかった。

 「自分の受けてきた教育」というとき、その教育を施した主体として、誰を思い浮かべるだろうか。教師、親、部活の先輩、会社の上司……そうやって過去を掘りおこしてみれば、「自分の受けてきた教育」を語ることは、「自分が歩まされてきた人生」を語ることへと限りなく漸近していく。いやむしろ、人生を語ることが、とりもなおさず教育を語ることに他ならないのかもしれない。〝教壇〟に立つ一人ひとりの語りに触れると、そんな気さえしてくる。

 厄介なのは、受けてきたその教育が、自らが望み選びとったものではないということにとどまらない。僕たちは、これまた否応なく、いつのまにか教育を施す側に立たされる。教育の受け方も施し方も、誰も教えてくれないのに。

 構成・演出の多田淳之介氏は「全ての人間は間違って育てられたんじゃないか」と語り、『Anti Human Education』というタイトルに「非人間教育」と「抗ヒト教育」という二つの意味を込める。

 〝教壇〟に立つ人たちの語りから立ち上がるのは、たしかにその語りの限りでは「非人間教育」のように思われる。しかし同時に、彼らは語ることで、その呪縛に精一杯、抗っているようにも感じられる。生きることそれ自体が、こんなふうな拮抗の上にかろうじて成立する営みなのかもしれない、そんな気さえしてくる。

 ここのところ卒業生にあうと、教師である自分の物語と彼らの物語との齟齬に寂しさや後ろめたさを感じることがある。かくいう自分も、親と会えば、やはり彼らの物語と僕の物語のあいだに、埋めようのない隔絶を感じることがある。

 現実と虚構のあわいを見事に生きて見せる、目の前の役者の身体と言葉に、つい自分の人生を重ねてしまう。

〝教室〟全体の空気がそんな想いに満たされたように感じたとき、まさにこの空間じたいが、『Anti Human Education』の現場のようにも思われた。

 ところで、この〝教室〟に最後までいると、終盤に奇妙な時間が訪れる。

 私たち観客自身が、事情も理由も呑み込めないまま身体を動かす時間。これは何だろう、もう終わりにならないかなと思いかけたのも束の間、このパフォーマンスは観客全員が舞台を注視するなか閉じてゆく。

 その静寂のなか、ああこれは〝演劇〟だったんだ、いや、もっと言えば、〝演劇についての演劇〟だったんだという想いにかられた。

 ──僕たち観客が後にしたのは、〝教室〟ではなく、その正確な意味で〝劇場〟であった。

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