「言語」「思考」の底にあるもの──キエラン・イーガン『想像力と教育』

 先日、垣内さん(@R_Kakiuchi_0921)・あすこまさん(@askoma)とのオフ会で話題に出た本。自分にとってそれなりに重要な本のはずが、即座に正確な説明ができず、「やっぱり記録はちゃんと残さなきゃだめだ」と反省……ということで、備忘録として。

「学校」に期待される3つの役割

イーガンは、まず、近代の「学校」に期待される3つの役割を提示する。

  1. 子どもを社会化する:大人社会の一連の規範や信条を教え込む

  2. 子どもの知性を養う:生徒の精神にとってなんらかの価値があるもの、世界や現実についての真実を教える。

  3. 個々の生徒の可能性を実現する:生徒それぞれの学習スタイルに応じた自発的探究を生徒にうながす。「学問的知識」よりも「学び方を学ぶ」。

理想の教育について論争が起こるとき、この3つの立場のうちのいずれかを前提としていることが多いのではないだろうか。国語教育界隈でも、それぞれに対応する人々が容易に思い浮かぶ。
とはいえ、このうち1つの立場に固執して他の立場を完全にしりぞける実践家や教育行政に携わる人たちは少ないだろう。もし時間的・人的・物的リソースが無限にあるなら、この3つすべてを満たしたいと願う人も少なくないはずだ。自分もまた、この3つ、特に②③の間でいつも揺れ動いている。

イーガンは、これら3つの役割(社会化・学問的訓練・個人的発達)が互いに相反する関係にあると指摘した上で、これらすべて捨てて第4の道を提案するのではなく、これらすべてを満たせるような第4の道を提案するという、弁証法的な主張を展開する。

第4の道──「理解様式」(kinds of understanding)への着目

イーガンの提唱する道は、いわゆる反復説ヴィゴツキーの学習理論に基づいている。

「反復説」とは、「個体発生は系統発生を繰り返す」、つまり「生物の一個体の発達において、その種がたどった発達(進化)の過程が見られる」というアレである。

生物学における「反復説」を文化や教育に応用しようとする試みは昔からあり、本書では「論理的反復説」と「心理的反復説」として紹介されている。前者は人類が知識を獲得してきた順序に着目し、後者は原始的な心理状態から洗練された心理状態への進化が前提とされていた。しかしいずれも、成功はしなかった。
そこでイーガンは、子どもが何を媒介にして世界を理解し認識していくのかという「理解様式」に着目した反復説を提唱する。

この「理解様式」に着目する視座は、ヴィゴツキーの学習理論(よく見る、三角形のあのモデル)を下敷きにしている。
ヴィゴツキーの「主体・対象・道具」に照らせば、「論理的反復説」が学ぶ対象、「心理的反復説」が学ぶ主体、そしてイーガンの「理解様式反復説」は学ぶ道具(主体が何を媒介に対象を理解するか)に着目した考え方といえる。
ヴィゴツキー自身も、「蓄積された知識」という基準や、ピアジェのいう「心理的段階」という基準では、知的発達について十分理解できないとしている。

5つの「理解様式」とその関係

イーガンの提示する理解様式には5つある。

  1. 身体的理解
    すべての理解の土台になる様式。理想的には、生涯を通して留まるもので、その他の理解様式のなかで修正されながら発達を続ける。
  2. 神話的理解
    個人の発達では、2・3歳~7・8歳の頃に前景化する様式。対概念(たとえば〈善/悪〉〈勇気/臆病〉など)による理解、ファンタジー、比喩、リズムとナラティブ、イメージなどを特徴とする。幼い子どもが、少ない手持ちの道具で世界を表現しようとして、詩的に見える表現を生み出すのは、おそらくこれにあたる。
  3. ロマン的理解
    個人の発達では8~15歳に前景化する理解様式で、歴史的にはヘロドトス『歴史』が典型。現実世界の限界(例:「世界一の○○」といった極端な事例への関心)、経験の極端な事例(例:英雄の話)、個人のエピソードに焦点をあてて世界を認識し語る。読み書き能力に支えられた様式。自律的自己の感覚、自律的現実世界についての感覚が中心にある。アルキメデスの逸話やニュートンのリンゴの話を通して私たちが科学を理解するのは、たぶんこれにあたる。偉大な出来事に立ち会うような理解様式。
  4. 哲学的理解
    個人の発達では15~20歳に、歴史的には17世紀以降に前景化する様式。洗練された言語と読み書き能力、さらには抽象的言語や書かれた文献に基づく知的共同体を必要とする。組織的・論理的思考、一般的法則発見への希求、自己の文脈から脱却して現実を現実そのものとして把握しようとする。
  5. アイロニー的理解
    歴史的には20世紀以降に前景化する様式。我々自身についての高度な省察(「再帰性」といって良いと思う)、世界を意味づけしようと試みるときに依拠する概念の力が本質的な限界を持ち粗野なものだと認識する鋭敏さが特徴。精神と言語が現実を表象しようと試みるととともに、他の遊び方(たとえば、芸術のような生成的な遊び方)もできるという省察的な認識を含む。

イーガンは、

  • これら5つの理解様式が特定の順序で人間の進化と文化史のなかで生まれてきた。
  • 5つの理解様式が歴史的に発達してきたのと同じ順序で、個々の生徒もこれらの様式を獲得していくのが一番良い。

と主張する。

ところで、中高一貫校で現代文を教えるということは、「ロマン的理解」と「哲学的理解」との橋渡しをするということでもある。しかし、実際に授業をしていると、この間のギャップは大きく、これは存外難しい。

先日も、僕が記憶違いで、この2つの間に「科学的理解」を入れたくなったのも、日々このギャップの大きさを感じていたからかもしれない。

実際、イーガンも次のように述べている。事情は日本でも同じであるばかりか、嘆かわしいことに、その教育機関が破壊されかかっている。

大学などの教育機関の意識的な支援がなければ、「哲学的理解」は単に気まぐれに部分的にしか発達しそうもない。西洋のメディアや一般社会の発話形態レベルでは、「哲学的理解」を十分に維持することができる共同体は実現しない。(p.140)

閑話休題。こういうふうに理解様式を整理すると、ついこれらの様式が直線的に「進歩」し「交替」していくものと捉えてしまいがちだが、イーガンはそうした見方を折りに触れて否定する。

世界について抽象的で「客観的」な方法を学んでも、それが感覚をもとにした方法に取って代わるわけではない。2階に向かって、風呂の温度は「約摂氏74度だ」と叫ぶこともできるし、「熱い」と叫ぶこともできる。これら2つの方法は、われわれの精神に一緒に住み続ける。(p.74)

われわれの文化的発達も生徒の発達も、神話的思考から始まり、それとは多少違うもので、よりすぐれていて、より実際的で効果的な合理的と呼ばれる思考様式に移っていくのではない。そうではなく、これら2つの思考様式は区別される以上に多くのことを共有しているし、両者の間にはドラマチックとも言えるほどの違いがあるにもかかわらず、その下に連続性が隠れている。(p.97)

確かに、われわれはロマン派の中に「ロマン的理解」の明らかな例を見る。しかし、主要なロマン派作家が日常的に「哲学的理解」様式の特徴を使用するのをわれわれは見いだすし、特に、詩的探究方法の適切性を論ずるときはそうである。つまり、すべて5つの理解様式は複雑な歴史上の主張に織り込まれていることがわかり、時代によって、ある様式が他の時代よりも目立つにすぎない。(p.119)

イーガンは、これらの理解様式が重なっていき、理想的には我々がその間を自由に往還するイメージで捉えているのだ。

「言語」や「思考」の底流にあるもの

僕がイーガンの理解様式反復説に魅力を感じるのは、日々国語という教科を教えていて、言葉を読んだり書いたり、あるいは思考するときに、何らかの身体感覚というべきものが関与しているという直観を抱くようになったからだ。
たとえば、あるテキストが自然に読めると感じるとき、私たちは単に言葉をたどり情報を取り出すことに成功しているのではなく、語りの呼吸やリズムをよすがにしながら、それらと「同期」しつつ読んではいないだろうか?
あるいは、抽象概念を無理なく操作しているとき、それは単なる記号として概念を理解して動かしているのではなく、ある種の「実感」をもって概念を操作してはいないだろうか?

イーガンは、こんなふうに述べている。

「哲学的理解」の最初の徴候は、「ロマン的」思考に出現し始める。(中略)「ロマン的理解」から「哲学的理解」への移行は、想像力が手を伸ばすことに続いて起こる。またそれに続き、想像力が方向をつかんだものを精神が確実に維持するために、必要な言語上・概念上の道具を構築することによって、その移行が起こる。(p.127)

また、すべての理解様式の土台にある「身体的理解」については、次のように述べる。

われわれは言語以前の意識を確かに持っているし、もっと悪いことに、この意識は一時的に言語以前の時期に存在するだけでなく、人生を通してずっとわれわれに留まっている理解様式のように、私には(またその他多くの者にも)思える。読み書きができるようになってもわれわれは話しことばを使うことをやめるのではないのと同様に、われわれは言語以前に持っていた理解方法を捨てるわけではない。「身体的理解」が何か共通の「人間的本質」の構成要素であるという意味ではなくて、単に、われわれは言語的ではない1つの明確な人間的方法でも、世界を理解しているという意味である。(p.174)

数年前から、国語の教員として「言語運用能力を育てるには、その面だけ鍛えても十分ではない」という直観を僕は持っていて、それに基づいた実践ができないかを考えている。イーガンの考え方は、そのヒントになる気がしている。

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