[読書]難解なのに実践へのヒントがある──G.ベイトソン『精神と自然』

僕がG.ベイトソンという文化人類学者のコミュニケーション理論に関心があることは、以前のエントリで書いた。

数ヶ月前、「最近ベイトソンに関心があるんですよね〜」と勤務校のカウンセラーさんと雑談していたら、「ベイトソン『精神と自然』の読書会がありますよ」と紹介された。

案内を見てみると、なんと『やさしいベイトソン』という概説書の著者である野村直樹先生をお招きするとあるじゃないか!

「これは何としても行かねば!」ということで、その日のうちに申し込み、つい先日参加してきた。

ベイトソンの理論の柱の一つには「ダブルバインド」があり統合失調症などの研究とも関わっている。そのため、彼の名前は精神医学の世界で通りが良いようだ。

僕以外ほぼ全員が精神科の先生や看護師さん、臨床心理士の方という読書会。耳慣れない言葉も飛び交い、正直アウェー感満載だったのだけど、実践家という意味では通じるところもあり発見もあった。

主語述語文から見る実践の陥穽

ベイトソンの文章は難解だ。それは彼が僕らの慣れ親しんだ世界とは異なるものの見方を記述しようとするからだ。たとえば……

「石が硬い」(The stone is hard)──というような表現形式をとるように、われわれの言語はできているのだ。(中略)しかし科学や認識論においては、このような語り方では事は足りない。理路整然と考えるには、何かが持つとされるいかなる「特性」も「属性」も、つまりどんな形容詞も、時間上で起こる最低二組の相互作用の結果を根ざしているのだということを頭に入れておくことが望ましい。
「この石は硬い」というのは、(a)突いてみてもヘコまずに耐える (b)石の部分(分子)間のある種の連続的な相互反応が、部分同士を何らかのやり方でしっかりつなぎ合わせている、という意味である。

(『精神と自然』p.80、「その15 言語は通常、相互反応の片側だけを強調する」)

……と、まぁこんな具合。

ところが、自身の経験も語りながら皆で吟味していると、抽象的なテクストが、血の通ったものになってくる

たとえば精神科の看護師さんは、「あの患者さんはおとなしい」と自分が語るとき、もともとは自分と患者さんとの相互関係のなかでそのように表現したはずなのに、気づいたらそれがその患者さんの確固たる属性として他のスタッフに伝わり、そういうふうにしかその患者さんのことを見られなくなってしまう、というようなことを語っていた。

その患者さんのことを「おとなしい」と表現したからには、たしかに患者さん自身の内部に相互作用があって、その看護師さんにそう感じさせたのだろう。

しかし、それはあくまで看護師さんとの関係においてそう語られただけであって、他の人との関係においては違う表現の可能性があったかもしれない

にもかかわらず、「あの患者さんはおとなしい」という文は、その可能性を捨象し、患者さんへの評価が固定してしまう

「患者」を「生徒」「保護者」に置き換えてみたら、学校現場でも思い当たることはたくさんある

「あの子は活発だ」「あの子は熱心だ」「あの子は主体的だ」……それがたとえ肯定的な評価だったとしても、その言葉を発する「私」とその子の相互作用や時間の積み重ねは、文にした時点で隠されてしまうのだ。

動詞にも当てはまる!?

この一節、ベイトソンは形容詞について書いているのだけど、読書会で僕は動詞にも当てはまるんじゃないかと発言した。
たまたま夏に、國分功一郎さんの『中動態の世界』を読んだことも影響していたかもしれない。

そのことを自覚している教師は少ないかもしれないが、教室では見えない権力がたくさん働いている。

よく実践論文なんかで「生徒は活発に発言していた」とか「生徒は◯◯を学んだと振り返りに書いていた」とか目にするけれど、「発言する」とか「書く」という行為が、果たしてどこまでその子自身の能動性によるものなのか

ある方向の振る舞いをすることが望ましいとされている教室のなかで、そのように振る舞う子がいるとき、それがその生徒自身の能動的な行為かはちょっとアヤシイものだ。

それを「発言した」「書いた」と能動態で記述した時点で、覆い隠されてしまうものがあるかもしれない

仮にその論文を生徒に読んでもらい、まったく関係ない人がインタビューしたとしたらどうだろう。「いや、そんなつもりじゃなくて……」と語り出すなんてこと、けっこうあるんじゃないだろうか。そんなことを考えながら、読書会会場を後にした。

 

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