[読書]「からだ」も使った国語教育への可能性→西江雅之『ことばだけでは伝わらない コミュニケーションの文化人類学』

文化人類学者の西江雅之さん最晩年の論考。『考える人』に連載されていたものをまとめたものとのこと。

身体表現と国語教育とを結びつけようとする自分にとっては、示唆に富むというか、自分の考えていることなんて、ちゃんと学者さんは気づいているよねということを確認できた本だった。

「言語」と「ことば」

本書のタイトルは「ことばだけでは伝わらない」であって「言葉だけでは…」にはなっていない。西江さんは「ことば」という、ひらがな3文字に意味をこめている。少し長くなるけれど、「はじめに」から引用してみよう。

「伝え合い」に関連した従来の研究の多くは、「言語」とそれ以外の「非言語」の領域に分けられて、言語学やノンバーバル・コミュニケーション(non-verbal communication 非言語コミュニケーション)研究などの分野で扱われてきました。こうした研究には、「言語」や「身ぶり」、「視線」などといった「伝え合い」の一側面を切り離して個別に扱う傾向が強く見られます。

言語学でいう「言語」とは、実際の「伝え合い」の場で誰かが話しているナマの「ことば」から、文字などの助けを借りて紙の上に記述することでとらえられた、いわば「ことば」の標本にすぎません。一方で、「おはよう」という「ことば」を実際に話せば、誰の声なのか、男性の声か女性の声か、優しく言っているのか不機嫌な調子なのか、早口なのかゆっくりした口調なのか、といった様々な特徴が必ず伴ってきます。(中略)

わたしが強調したいのは、「伝え合い」においては、「ことば」やそれ以外の要素はどれ一つとして独立してそれだけで現れることはない、つまり、同時に溶けあって働いているという、ごく当たり前のことです。

(「はじめに」pp.2-3、強調は引用者)

「従来の研究では言語と非言語を分ける傾向がある」という記述が本当かどうかは分からない。ただ、「ことばとそれ以外の要素は分けられないのではないか」という主張は本当にその通りだと思う。

この本の、特に前半部は、この主張が西江さんの経験もまじえながら語られ、「伝え合い」のための「七つの要素」が提示される。その「七つの要素」のなかには「視線」や「身体の動き」、さらにそのなかには「静止」があったりして面白い

「言語」と「非言語」は分けられるのか?

西江さんの主張で思い出すのはG.ベイトソンという文化人類学者のコミュニケーション理論だ。たとえば、『精神の生態学』という本では、父と娘の会話というかたちで彼はこんなことを書いている。

父「しかし、言葉だけで言うって、どういうことだ? そんなこと、ありえるんだろうか?」
娘「書いた言葉は?」
父「だめだめ、書いた言葉にもリズムもあれば、響きもある。それは消せないよ。『ただの言葉』なんてものはないんだ。そこが肝心なところさ。言葉はいつも身ぶりと口調に包まれている。しかし、言葉を包んでいない身ぶりというのは──これは、どこにでもあるな」
( 中 略 )
父「ともかく、ナンセンスだ。人が言葉でしゃべってる──ただ単語を並べてしゃべってる──なんて考えるのは全然ナンセンスだ。身振りと言葉、なんて分けるのが、だいたいナンセンスだ。『ただの言葉』なんてものはないんだから。構文とか、文法とか、そういうのも全部ナンセンス。『ただの言葉』というものがあるという前提の上に、はじめて成り立つ概念だ──」

(佐藤良明訳『精神の生態学』pp.50-51、強調は引用者)

演劇教育に関心を持ち始めた頃、僕も「言語」と「非言語」に分けて考え、「非言語コミュニケーションも大事だ」というようなことを考えていたのだが、なんとなく自分自身のなかでモヤモヤしていた。

そんななかベイトソンの本でこの一節に出会い、合点がいった。言葉をやりとりするとき、僕たちは、その言葉の持つ響きやリズム、肌触りのようなものに大きな影響を受けている

面白いのは、話し言葉だけでなく、「書いた言葉にもリズムもあれば、響きもある」と彼が言っていることだ。どういう字体で書かれているか、どういう文体で書かれているか、文の長短や表記のしかた……ちょっと思い返してみれば、たしかに僕たちは言語情報以外のものも受け取りながら、書かれたものを受け止めている。

「からだ」も使った「ことば」の教育の可能性

 

僕の最近の関心は、「身体性」が、話したり聞いたりする活動だけでなく、読んだり書いたりする力にも何らかの影響を及ぼしているのではないかということである。

たとえば、僕の勤務校はそれなりに学力の高い学校なのだが、小説となるとなかなか人物や状況の機微が読めないという生徒がいる。いわゆる「行間が読めない」というやつだ。

こういう現象に対して「それは語彙が少ないんだ」という指摘がなされることがある。しかし、これだと語彙レベルがそれほど高くない小説でも読めないというケースを説明できない。

また、「人生経験が少ないのでは」という指摘もよくあるのだが、これを言われてしまうとあらゆる経験をしないと文学は読めないということになってしまう。

僕の仮説は、そうした要素とともに、文章全体の雰囲気とか文体から醸し出される空気のようなものを身体的に感じる能力が関わっているのではないかというものである。

そして、西江さんのいう「からだ」と切り離せない「ことば」をやりとりする行為を重ねることが、「国語力」を伸ばすのに、十分条件とはいえなくても必要条件の一つになるのではないかと漠然と考えている。

 

教室での授業でも、「伝え合い」と「ことば」、そして「言語」の関係がこれまでいかに切り離されて扱われてきたかを感じさせる場面に出会うことがある。たとえば、言語学や国語学を専攻する学生たちは、「おはよう」と言えば、どんな調子で言っても、同じ意味をもつ挨拶表現として扱う。その「おはよう」を、どのような声で、どのような調子で言うか、あるいは、どのような態度で言うかといった、現実には大きな意味を占めるはずの問題が話題にのぼることは少ない。しかし、演劇を専攻する学生たちの場合なら、この「おはよう」というセリフを、十種類以上の異なった意味をもつように言ってみなさいという要求に、至極簡単に応えることができる。男の声、女の声、幼児の声、老人の声、嫌味をこめた声、好感を与える声、晴れやかな声、暗い声など、その場での話者の感情のみではなく、人間関係もふくめて、異なった意味をもつ「ことば」で表現することが可能なのだ。

(第2章、p.47)

こんな一節とともにつらつら考えてみると、演劇が国語教育のなかで力を発揮する場面がたしかにあるように思えてくるのだが、さてどうだろうか。

 

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