うちの生徒は「挨拶」ができない??

「挨拶」をめぐるエピソード

勤務校の生徒(ついでに教員も)には、「挨拶のできない」人が多い。引率先でも、時折他校の先生に注意される始末だ。

ところが、あるとき、同僚の教員が引率先で大きな声で挨拶をしているにもかかわらず、生徒がちっとも声を出さないものだから「おい、教師が挨拶しているんだから、お前たちも挨拶くらいしたらどうなんだ」と注意したところ、「いや、してます」と彼らは言ったという。

驚きである。
つまり、少なくともその生徒たちの場合、問題は「挨拶ができない」ことではなく、「相手に伝わる表現ができていない」ということにあるということになる。

経験的には、勤務校の生徒の場合、この「表現できていない」ケースがかなり多いと感じる。

「何もしない」ことによる表現の怖さ

さらに言うと、何らかの動作や発話をしないということはそれ自体が「表現」になりうるので、問題は「意図とは大きく異なる表現をしてしまっている」ことに発展しかねない

文化人類学者の西江雅之さんは、著書『ことばだけでは伝わらない コミュニケーションの文化人類学』(幻戯書房)で、人々の「伝え合い」の要素の一つである「身体の動き」として、「視線」とともに「静止」も挙げた上で、次のように述べている。

 

人は、わずかの間の「伝え合い」のうちにも、「ことば」や「表情」などで、当人が意図していなかったことを表現してしまっている。

(西江雅之『ことばだけでは伝わらない コミュニケーションの文化人類学』p.104)

つまり、「何もしない」ことは、何も表わさないのではなく、「敵意」とか「不機嫌」とか、そういうネガティブな表現として受け取られうるのだ。

そういえば、芥川賞で少し前に話題になった、又吉直樹さんの『火花』にもこんな一節があった。

僕は周囲の人から斜に構えていると捉えられることが多かった。緊張で顔が強張っているだけであっても、それは他者に興味を持っていないことの意志表示、もしくは好戦的な敵意と受け取られた。周りから「奴は朱に交わらず独自の道を進もうとしている」と半ば嘲りながら言われると、そんなことは露程も思っていなかったのに、いつの間にか自分でもそうしなければならないような気になり、少しずつ自分主義の言動が増えた。

(又吉直樹『火花』p.50)

「体験」「体感」の必要性

「挨拶しましょう」なんてよく教師は指導するし、生徒会でも「挨拶運動」のようなことをやる学校もあるかもしれないけれど、先に挙げたエピソードのなかの生徒たちに、いくら「挨拶をしろ」と言葉で言ってみたところで事態が変わろうはずはない。

挨拶に限らず、日常のコミュニケーションのこうした問題に自覚的になるには、実際に「体験」「体感」する必要があるのではないだろうか。

人とのやりとりには言語だけでなく非言語的要素がからむ以上、演劇的手法は、従来の方法よりもこの点で力を発揮するように思われる。

ちなみに、いまの自分は生徒に挨拶する(あるいは挨拶を返す)ときに、なるべくそうと分かるように手をあげるようにしている。

前任の女子校で、こちらも挨拶を返したつもりだったのに、女子生徒に「先生に無視された」と訴えられるという事態に巻き込まれたからだ。当時は「面倒だなぁ」と思ったが、いま思えば、そのときの自分も「挨拶ができていなかった」のだろう。

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